父に教育の一環として、カッターとセメダインを使ってプラモデルを作ったのは5〜6才の頃。
ドライバーを持ったのは7才の頃、レミントン・ダブル・デリンジャー(モデルガン)のメンテナンスに使う。
スパナを持ったのは同じく7才の頃、ユーコン飛行機エンジンのメンテナンスに使う。
8才の頃、父は11才の兄に英語のカセットテープの教材を買ってきて「勉強しろ」と良く言っていましたが
私には「勉強しろ」とは言いませんでした。その頃から父は私の人生のレールを引いていたのかな。

1979年15才の時、高校に「進学しなくて人生大丈夫かな」と父に聞いたら「何言ってんだよ、家で働くんだろ?
 だったら国分高校に入るんだろ?国分大学もあるぞ。」と言われその通りだと思い中学3年生の夏に進学をしない事を決め
 表具師になる事を決意する。両親の元で働いていた職人の高橋さんに「暇な時間があったら手伝いにおいで」と言われ、
 中3の夏、冬休みに仕事の手伝い。中3の終わり頃には午前中は学校に行き、午後は仕事の手伝いをしました。

1980年春、見習いとして表具やの業界に入門。父と高橋さんと宮本さんと私、計4名の職場でした。
 主に建設業者からの仕事依頼。その頃のクロス材は天井紙30cm前後の大柄が流行、左右前後の振り分けをしていた。
 壁紙はストライプの物が流行、振り下げを使用して貼っていた。
 多くの工務店や設計士には好評であった、しかし曲がった家を建てる工務店には嫌われお付き合いは1回こっきり。
 こんな事もあった、欠陥住宅を建替えさせた施主直々の依頼もありました。

1981年春、両親との対立により家を出て、大宮の金山表具師に面接に行った所、まだ未成年だった為
 保護者の承諾が必要と言われ、目黒の叔父に保護者代わりになってもらい働く事になりました。
 勤めたのは短い間でしたが、思い出に残った事と言えば、お寺の障子を貼った事と
 表装をしていた金山さんのお父さん、仕事場の中は表装でいっぱい。「これが表具師だ。」と思う。

1981年冬、両親と和解したため家に戻り、両親の元で働く事にしました。

1979年〜1984年まで武建設の下請で都営村山アパートの空き家(襖・壁)工事を嫌と言うほどやりました。
 10時近くまで。

1986年冬、22才の時に次男なので自ら父のもとを離れ布施表具店を設立。

1988年夏、父に独立を認めてもらい屋号を自分の名前に変更し、渡辺酒造を営んでいる方の店舗で経営。
その頃、謄写版を使って広告を作り町場のお客さんを対象に営業。

1988年〜1991年の間は室内装飾店の助っ人をする仕事を主にしていました。(手間職人)
 この頃は朝6時頃に家を出て現場に向かう。夜21時に現場を出て22時に帰宅の日が多かった。
 (2007年10月名詞帳を整理していたら、インテリア・コスモスさん、インテリア・ヤマザキさん、
 カワケイ産業 斉藤さん、藤原表具店さん、TIH商会 金澤さんの名詞が出て来ました。
 当時、私が憧れていた親方達の名詞だけが残っていました。)

1995年頃関東財務局むさしの住宅空き家(襖)工事を本店から手間請負。

1992年〜現在、町場のお客さんのみを対象に営業しています。
 朝8時に家を出て現場に向かう。夜17時に帰宅。帰宅後、作業場で深夜24時近くまで
 襖貼りの残業をする日が多い。(海に行った日でも24時近くまで仕事をします。)

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